室内楽専用ホールへの道

 この記事は、一般財団法人ルンデの村林基彦が、Facebookの個人ページに2021年10月12日から、2022年9月17日にかけて書いた文章に加筆修正したものです。
 2022年10月19日、設立5年目をむかえ、ひとつの区切りとして掲載します。

その.1(2021.10.12)

 オリンピックの年には、『室内楽専用ホール』を作るよって豪語してはじめた「あたらしいルンデ」の活動。
 金山で土地を探すも、あれ?こんなに土地って値上がりしていたっけ?10年くらいまえに調べてもらった土地の値段なんて何処吹く風。想像していた値段の2倍いや4倍?それ以上かな?「ドアタマ」から暗雲立ちこめる船出でした。手元に纏まった現金があれば簡単なコトなのですがそうもいかないのは世の常。
 そう、色んなコトがありました、、
 熱田区選出の名古屋市会議員の森ともおさんより紹介いただき「ボストン美術館」の閉館後の利用者として検討していただいたこともありました。ですが、美術館・博物館目的でしか利用できないというとことに落ち着いたのは名古屋の皆さんはご存じのこと。
 郊外型も模索しました、両親の生まれ故郷、三重県度会郡の伊勢自動車インター付近(多気の方は、高速道路直結の素敵な商業施設オープンしましたね、考えていたのは玉城の南側、度会の方です)だったり、ゆかりのある、岩倉市、大口町、岐阜県瑞穂市etc
 金山でいろいろ土地を探しているさなか、名古屋市緑政土木局河川計画課の方達と堀川の河川敷の再開発でホールをつくれないか?と盛り上がったり(法律の壁で断念)、、もしました。
 そして新型感染症のパンデミック。
 正直、音楽をはじめとする文化芸術は、世の中から消えてしまうのではないかと背筋が凍った日々がありました。
 そもそも、本業であるデイブレイクフレーバーの仕事も2020年3月以降はキャンセルの連続、会社の存続すら風前の灯火でした。
 我らの主戦場である「医学会」がWEBでの開催を中心とする形式に移行しました。おかげで、2020年の夏からは今までのように仕事は戻って来て今日に至るまで日々忙しくしています。
 そう、2020年の秋冬も3本コンサートすることができました。
 その時は、しらかわホール、電気文化会館、HITOMIホールを上手く使ってコンサートをやっていけばいいかなと、ほぼホールを作ることについては諦めていました。
 すこし考える時間ができた、2021年3月頃に、やっぱり、自分達が自由に使えるホールが欲しいな、と。
 これからも感染症の影響は残るでしょう。COVID-19に限らず、新しい感染症は今後も発生すると専門家は警鐘をならしています。それには自分達がコントロールできる「場所」が必要だなと、仕事仲間たちが、音楽仲間たちが試行錯誤してインターネット配信方法を確立し、個人的には、医学会の仕事を通じて仕組みはこの1年で熟成しました。
 ほんとたまたまなんです。
 5月の仕事が山をこえた頃、少し時間が出来て割と早い時間に自宅に帰る日々が続きました。気分転換に、散歩に出たんです。
 「テナント募集」の看板が立っていました。

その.2(2021.10.19)

 本日、10月19日は一般財団法人ルンデの設立日です。ちなみに、村林の母の誕生日だったりします。
 そう、設立してから4年経ちました。いや経ってしまいましたか、、
 3年前の計画は、荒唐無稽。建物だけで総額20億をこえるんじゃないかという、大きなプロジェクトを作ろうとしていました。
 2年前の計画は、現実路線。堀川の再開発に便乗しました、公共性の高いホールや会議室をつくるということで可能性はあるのじゃないかと淡い期待をして。
 1年前に計画は、白紙。
 このまま「室内楽専用ホール」をつくることは夢として形がなくなっていく覚悟もできていました。
 僕らには、先祖代々受け継ぐ資産もないし、デイブレイクフレーバーとして会社の経営をしているといっても、黒字と赤字を行き来しながらギリギリ低空飛行する程度のもの。
 そこに、このCOVID-19の大打撃です。お先真っ暗にもなった日々もありましたが、その大打撃に打ち勝つべくこの1年半、ほぼ休みゼロで突っ走って来ました。
 その甲斐あってか、デイブレイクフレーバーは2020年春のマイナスを補い、さらには今まで以上のプラスにもっていくことまで出来ました。
「奇跡がおきました」 多分、そう表現しても大げさじゃないことがおこったんです。
「テナント募集」の看板をみて、大和ハウス工業に電話をしました。
 正直、マンションかテナントビルが建って、そこに入る事務所や小規模店舗の募集だと思っていました。ただ、更地がひろがっているだけの状態だったので、ほんのちょっとだけ期待はしました。
 大和ハウス工業のUさんに説明されたことを簡略化して書くと「大和ハウス工業」が「建物」をたてて「貸してくれる」ということでした。
 直近で契約間近までいった計画が「コンビニ」「クリニック」「調剤薬局」がはいる建物だったそうで、諸々の理由で「コンビニ」だけ残ってる状態で僕が電話をしたようです。
 なかなか契約がまとまらずに関係者みなさん焦っていたところという僥倖もありました。

・大和ハウス工業が建物のみ建設をする。(スケルトン状態で引き渡し)
・大和情報サービス(現、大和ハウスリアルティマネジメント)が所有をして「定期建物賃貸借契約」でデイブレイクフレーバーに25年間貸す。
・内装は自由にでき、設計時から内装完成を考慮するのでお互いによい方向で計画をたてられる

 詳しく聞くとこういう仕組みらしく、正直目から鱗が落ちる感覚でした「今までで一番具体的な話になるの?これ?」
「1F コンビニ、2F 事務所・カフェ、3F ホール」で、この計画が実施できるか判断しましょうということになりました。
 その時に、なんとなくかかる費用についても聞きました。
 土地を買って、その上に建物をたててという形でホールを作る場合の10分の1以下いや20分の1以下の金額が手元にあればスタートできる計算でした。昨年のコロナ関連融資で実質無利息で借りられる範囲の上限いっぱいまで借りていたので、それなりに手持ち現金がありました。さらに、デイブレイクフレーバーの決算の見込みも過去最高売上と利益は確定していたので、銀行の追加融資も見込めるんじゃないかと、取らぬ狸の皮算用もはじめたりしました。
 これが6月4日のことでした。それから1ヵ月後の7月6日のことです。
「1F 事務所・カフェ 2F ホール」でいかがでしょう?とUさん、あれ?コンビニの話はどこにいった?

その.3(2021年10月25日)

 決して賢い選択ではないと思います。
 愚かなことをやりはじめたんだなと冷静にみてる人も当然いるかと思います。
 COVID-19によるパンデミックの世の中で、新しい生活様式にフィットした仕事でイベント業界の中ではいち早くたちなおり、利益をあげるまでになったのだから、パンデミックがおさまってからゆっくり考えたらいいんじゃないかと、各方面から言われました。そう、
「今じゃないんじゃない?」
 世の中のトレンドは「今は耐えてじっと様子をうかがう」なんだと感じます。これだけリスクがある状況で必要に迫られてる人以外は、新しいチャレンジをする人はいない。
 でもね、冷静に考えてみてください。
 パンデミックがおさまり、世の中に活気が戻ったとき、そこからよーいドンでよい物件を得られますか?
 今回と同じような賃貸契約の案件があったとして、地主さんも建て主さんも沢山の選択肢の中から選べます。
 その時に僕らのような中小企業、いや小企業がその競争に耐えうるだけの評価が得られるかを考えると、もうチャンスは激減してると思います。
 僕らにとっては「今」なんです、正直、物件的にも条件的にもここまで揃うのはラストチャンスなのかもしれないとも思いました。
 僕らの仕事仲間の多くは「就職氷河期」のドロップアウト組です。IT革命で沢山のヒトが起業し、廃業していた2000年代前半にどさくさに紛れて起業しています。まわりからはフリーターの延長?とさえ言われていました。派遣社員で糊口を凌ぐより、自分達で仕事を探して、自分達で仕事をするコトを選びました。
 学術会議の仕事は大小ありますがなくなるコトはない。リーマンショックの時にそれは実感しました、特に医学薬学に関わっていれば不況知らずだと慢心してた時期でもあります。
 さらに東日本大震災の時も計画停電が行われる中で、東日本以外の地では1ヵ月後には仕事が戻って来ていました。
 ゆえにCOVID-19パンデミックショックはこの業界を激震させたと思います。中止、延期の嵐。WEB会議や配信の実験も暗中模索。
 ただ、ほんの微かな光だけは見えていました。僕らはずっとFlashを使って、プレゼンテーションを見せるということをやってきました。それをHTML5に変えれば、ブラウザで、スマートフォンやタブレットで見られるように出来る。2021年の春にはその仕事がそれなりにあるんじゃないかと思っておもって2020年冬目指してゼロから作り直す計画を自分の中でスタートさせました。(まさか2020年夏から案件が来るとは思わなかったので思いっきり見切り発車でスタートしましたが、、)
 要するに、あまり世の中の流れとは関係ないところで仕事をしてきたので、世の中の流れでモノゴトを判断する仕組みが自分の中には備わっていません。ということです。
 どちらかといえば、自分達の条件がそろうかそろわないかだけなんです。
 その自分達の条件と、先方の条件が合致しました。
「デイブレイクフレーバー単独で計画をすすめたい」
 見えない力が働いた?まさにそんな気がしました。
「ホールを作る」と宣言したときに図面として1フロアで室内楽のホールとして機能する簡単な建築図面を作ってもらっていました。参考にと大和ハウス工業に渡していたんです。たまたま、その図面で引かれた寸法の建物がこの土地の南半分にすっぽりと収まるのでイメージしやすかったのも功を奏したのかもしれません。
 コンビニエンスストアは優良物件からリスクあり物件(僕らの計画は「リスク大」物件だと思いますが)になっているように感じました。COVID-19禍においてコンビニエンスストアだけでなく、テナントそのものの入りが悪い、テナント見込んで建物を建ててもそもそも入居者がいない、だけど建てないわけにはいかない。2021年夏、世の中の状況は思った以上に見通しが悪くなっていました。
 そう。単独であれば、計算が立ちます。複合要素がないというのはシンプルでわかりやすく、見通しもよいんですよね。

 1階に、事務所とカフェ
 2階に、ホール

 脳味噌フル回転です。沢山の現場で感じたヒトの流れを思い出し、この敷地のなかで何が出来るか。仕事してないときはずっと考えていました。
 毎日、この場所を通るというのは具体的にイメージしやすくてよかったです。建物の配置が決まるまで紆余曲折、様々なことがありましたが、余りにも属人的な要因が多いので詳細は省きます。
 関わるヒト導線から配置を導き出しました。

・観客導線
・出演者導線
・スタッフ導線

 それぞれにおいて何を優先するかは変わってきますが、カテゴリ毎の優劣はありません。全部重要です。
 それが、鈴木詢さんの掲げる = 会場、主宰者、聴衆、演奏家が一体となって創り上げる「音楽の場」= にも通じると信じているからです。
 名古屋市営地下鉄の御器所駅と桜山駅の丁度中間であり、大通りに面しているというのも「会場」がランドマークになり「音楽の場」としての価値をたかめていくのだと想像できます。
 ホールまで、名古屋駅から30分の距離というのが市外、県外から来ていただくギリギリのラインかなと思っていたのでそれもクリア出来ました。

その.4(2021年11月1日)

 テナントとして賃貸で入るとは言え、それなりにお金はかかります。なので今回はお金のお話。
 8月に主要取引銀行に融資の申込をしました。
「なぜ、今やるんですか?コロナ禍が落ち着いてからでもよくないですか?」
 こればかりで、途中から聞くのも嫌になりました。
「なぜ今?とか、ホール作って儲かるの?って疑問をおもったら、この融資の相談は最初から断ってください」
 と言う前提で取引の絶えていた銀行に話をしに行きました。
 当然、取引絶えていた銀行は新規の融資先を欲しているので、そんな愚問は投げかけてきませんでした。
 まずは、敷金と、建設協力金と、内装工事費で約2億弱(*最終的には3億超え)のお金が必要です。
 敷金は契約満了したら、すなわち25年後に戻って来ます。
 建設協力金は、家賃の前払です。20年間かけて毎月の家賃から相殺されます。
 そしてこの先、25年間の家賃の積算額はかるく10億を越えます。
 身が引き締まる思いとはまさにこのこと。
 芸術文化は、よっぽど上手くそして時流に乗らない限り、商売としてなりたつものではありません。そして僕らの仕事もこの20年近く、黒字と赤字のギリギリの所で運良くつぶれずにやれたというのが実情。
 この2点からしても、正直、苦しい未来しか想像できないです。
 三四郎くんやデイブレイクフレーバーのスタッフのみんなを巻き込んでいいのかなと悩んで悩み尽くしました。今の形であと5年頑張れば、アーリーリタイアも可能な状況をつくりだせるかもしれないんです。それでも、みんな仕事の中で生きていく決意をしてくれました(僕が言い出したら止められないって思ってるかもですが)

「ノブレス・オブリージュ」という言葉には、馴染みがありません。

 先祖代々受け継ぐような土地も財産、まして地位など僕にはありません。祖父から引き継いだ、伊勢の山奥にちょっとした山林と、母のもつ今の家だけです。
 ただ、COVID-19によるパンデミックの中、同業者のなかでも少しだけ早くスタートを切ることができ「新しい生活様式」を具体的に実現できる方法を持ち合わせた僕らがやらなきゃいけないコトはあるんだろうなとは思います。
 母からは「資産家じゃなくてゴメンネ」って言われました。元々資産があって、それを引き継いでやるコトより自分達がゼロから作った会社で、自分達の力で作り出すほうが面白いから大丈夫って笑い返しました。
 芸術文化に対する行政のスタンスは、この1年半ではっきりわかったと思います。昨日の衆議院議員選挙で一言でも芸術文化に触れた候補者いたでしょうか?行政をあてにした運営を考えていてはダメですよね。
 応援してもらえるのであればラッキーくらいのスタンスでやらないと精神衛生上よろしくないし、なにか歪んでいく気がします。
 資本をもった会社の社会貢献ではありません。出演者、観客、主催者、そしてこのホールが一体となって産み出す芸術文化を発信するためにこの場所を作ります。

「捨てる神あれば拾う神あり」って言葉は大切にしようと思います。

 僕らのやることが面白いって感じる銀行もあるんだな、って。たまたま担当者が成績ほしさに暴走しただけかもしれないけど、、、2つの銀行からよい返事がありました。ただこの2つの銀行とも、かつて僕が取引停止にした銀行です。まさか協力してくれるとは思いませんでした、銀行員の精神力は並大抵じゃないな、と痛感しました。
 そう、これでホールができて、内装工事中に計画中止!!ってことだけは免れ、5年くらいはなんとかホールが維持できるんじゃないかなという目処はたちました。

 みなさんにお願いです。
 僕らの力だけでは維持することが精一杯の建物をつくります。よりよい場所にするために協力してください。

・寄付
・ホールの利用

なんでもイイです。具体的な方法は、また追々。

その.5(2021.12.12)

 12月9日にHITOMIホールで「中村太地ヴァイオリンリサイタル」を終えました。
 メニコン隣接のいつも使ってる、駐車場が工事中、何ができるのか?って思って聞いたら、「メニコンAoiホール」(客席300-400予定の演劇ホール)が出来る様です。会社の規模は全く違うけど、メニコンの社長の観てるナニかが、僕らと同じなんじゃないかなと感じました。
 200席にこだわっているのは、スタジオ・ルンデが180席だったというのもありますが、舞台と客席の近さが生む感動を伝えたいというのが一番にあります。どこに座っても満足してもらえる空間の最大値は200席位なんじゃないかなと思っています。
 もし、200席のホールがメインの建物を知ってるよって方あれば、教えてください、見学してみたいです。(大ホールがあって小ホールが200席程度って建物は何軒か知っています)
 その次に、収益的な側面から「室内楽・器楽」であるということも考えて、その公演が商業的に成り立つ最小値が200席位なんじゃないかと計算したりしています。100席でも黒字にしようと思えばできますが、どこかに歪みが生まれる気がします。HITOMIホールはその歪みを最小限におさえてくれるホールだと思います。新しい劇場が出来てもHITOMIホールは残るようです。
 儲かるものでも儲けるものでもないと思っているので、この場所で25年「コンサート続ける」コトがやはり主体になってきます。
 新しく建物を作るには、莫大な費用がかかります。もはや、宝くじを当てるしかないかと思い、宝くじを買い続ける日々でもありました。
 今回、場所とタイミングと諸々の要素考えると、ジャンボ宝くじの1等を当てるより確率が低いコトをだったんじゃないかたという気持ちにはなります。ここからは、堅実にひとつひとつの仕事を作り上げ、この宝物のような場所を続けていくために、さらに新しいコトにチャレンジしていけたらなと思います。

 12月1日に地鎮祭を行いました。
 朝から虹がかかり、前夜の嵐のような雨も収まり、太陽の光も差し、多分創業以来初めて、デイブレイクフレーバー社員全員がスーツで集まるというオマケまでついて地鎮祭ははじまりました。三四郎くんの妻、万知子さんが「巫女舞」をするというプラスアルファもあり、とてもよい雰囲気で、関係者の方々には楽しく過ごしてもらえたんじゃないかと思います。
 さて、ここからがスタートです。
 ほぼ建物の構造の部分は決まったので、内装の計画をどれだけ具現化できるかの段階にはいってきました。
 建物外観を公開します。

その.6(2022.3.5)

 建物名称「DBF Plazza」
 鉄骨造2階建て
 床面積、約700平方メートル
 最大高 約11メートル

 1F ブレイクカフェ(カウンター8席)、貸し会議室(ロの字 10席)2部屋、デイブレイクフレーバー事務所
 2F Halle Runde(室内楽専用ホール) シアター200席(仮固定式) 舞台客席フラット 椅子座面高によりアイレベル調整(4段階)

 御器所、桜山界隈を移動される方は、日々の変化を楽しんで頂けているかと思いますが、いかがでしょう?
 4月末には、大和ハウス工業の工事が完了して、5月から内装工事に突入します。完成は9月を目指しています。
 毎日、少しずつ姿を変えていく建築中の建物をみていると、責任感、不安、希望etc... 色んな感情に振り回されています。
 ここにきて、プーチンのロシア軍によるウクライナへの侵攻。戦争は絶え間なく地球上のどこかで起き続けてきましたが、今回ほど恐怖が麻痺する戦争は、湾岸戦争以来かなと感じています。
 自分達がめいっぱい楽しんで、それがまわりに少しずつでいいから広がっていけばいいなと思っています。多くの人と楽しさを共有できる場所になればとても嬉しいですし、つくる甲斐もあるってもんです。

「室内楽専用ホールへの道」その.7(2022.4.28)

 本日、大和ハウス工業の工事が終わり、施主さまから、我らテナントへ引き渡しがありました。
 ここからが本当のスタートです。
 スケルトンのこの状態(写真を参照ください)をみると、道のりの長さを痛感します。
 去年の春先のウッドショック、半導体不足、それ以外の原材料不足に始まって、とどめがロシアによるウクライナ侵攻、そこにこの円安。
 内装工事の金額が想定よりどんどん膨らんでいます。内装工事を先延ばしするほうがもっとコストがかかるので、なんとか銀行にも理解いただいて追加融資と自己資金(と言う名のコロナウイルス感染症関連の借入)でなんとか出来そうなところまでやってきました。
 そして、一番の誤算が『環境省 補助金「大規模感染リスクを低減するための高機能換気設備等の導入支援事業」』
 この対象になる基準をみたすべく、換気設備等々考えていたのですが、今回は「空調設備等の更新」ということで新築建築物・スケルトン建築物等は対象外になってしまいました。1000万くらい補助金でるかなと算盤はじいていたのですが大誤算。
 これで2台目のピアノとチェンバロの購入は少し先に遠のきました。
 コンサートの企画もそろそろ公表できるところまで来ました。まずは、ルンデの会員さんにゴールデンウイーク中に案内いたします。
 平和であるコトの尊さを感じながら、多くの人達が幸せを感じる場所をつくっていけたらと切に願っております。

その.8(2022.8.1)

 2010年にデイブレイクフレーバーのWEBサイトをリニューアルしたときに使った絵です。
 水彩色鉛筆で落書き程度に描いたこの絵をデザイナーチームに仕上げてもらい、TOPページに掲げました。
 ラジオ少年だった僕は、自分の部屋に居るときはCD聴くよりよりラジオをつけている時間の方がながかったです。
『夢 + 努力 = 現実』
 小学生高学年〜中学生の頃、日曜夜のAMの番組(mamiのRADIかるコミュニケーション)で毎週のように聞いた台詞。
 世の中への希望と、努力は実るモノだということが見事に砕かれていくなかで聴いていました。
 その頃からすでに、ナニも知らないのに世の中に対しては斜にかまえて、音楽と小説、ゲームの中へ現実逃避をしていたんです。それは20代になってからも同じで、インターネットという武器を手に入れて益々酷くなっていったと思っています。
 将来への展望もなく、社会の所為にするほど真面目でもなく、自身の破滅すら望む力もなかった。そんななかでデイブレイクフレーバーの法人設立に三四郎くんに声を掛けられたのがちょうど20年前の今頃のこと。
 明日、8月2日にデイブレイクフレーバーは法人設立20年の節目を迎えます。
 本当は明日、本店移転したかったんだけどね、、それはもう少し先、すべて思い通りにいかないから面白いんだけど。
 今回は「夢」の話です。
 水彩色鉛筆で描いたこの絵は、手前が金山の事務所の姿で、辿り着くかわからないような道の先にまだ見ぬ「お城」を描きました。それなりに仕事も充実してきて、自分のしたいコト、すべきコトが見えてきた頃だと思います。
 自分達の城を持ちたいとお酒を呑みながら、あーでもない、こーでもないとホント冗談交じりで言ってたコトを絵にしてみただけ。
 何か目標がないとエンジンが動かないそんな頃だったのかなと思います。僕が闇雲に仕事に向かい続けていたのは、仕事がなくなってそこまで積み上げたモノ全てがご破算になるその瞬間が怖かったから。
 その瞬間に似た体験は2年半前に襲ってきた、意外と耐えられるものだって知った。
 そう、それなりに努力はしたのかな、少しはしたんだと思うことにしてる。
 日々、石膏の粉や木くずにまみれながら汗だくで内装工事にまざって感じるのは、ココが誰かの「夢」をつくる場所になるかもしれないってこと。
 ここに至るまで、僕の我が儘で傷ついている方もそれなりにいる。これからはゼロになるのかと言われても、そんな自信は皆目ない。
 なのでこれからも自分のやりたいようにやっていきます。それが誰かの楽しみになり、希望になるのならこんなに楽しいコトはない。
 我慢したり誰かに押しつけられてナニカをするんじゃなくて、自分がしたいコト、欲しいモノを手に入れるための労力を努力って言いたいなと思う。
 完成まであと少しです。

その.9(2022.9.17)

 本日、無事にHalle Runde の最初の公演『御喜美江 & 大田智美 ファンタスティック・アコーディオン 2022』を終えました。
 開演前の前説?でもお話ししましたが、御喜さんのスタジオ・ルンデでの最後のコンサートの時に、「また、ここでお会いしましょう」って口走ったことから全ては始まったと思っています。
 あの何気のない言葉から今日までの細い細い道が続き、この場所に僕を立たせたのだと思います。
 内装工事の仕上げ具合にあわせながら、カフェのオープン、ホール公演の準備、そして事務所引越。ギリギリの厳しいスケジュールでした。
 工事関係者、社内等々誰一人欠けても出来なかったのだろうなと思います。

= 会場、主宰者、聴衆、演奏家が一体となって創り上げる「音楽の場」=

 鈴木詢さんが理想に掲げた場所に少しでも近づく一歩になったのかなではないかなと、まずまずの船出です。
 とにかくよく響くホールが出来ました。特に音響設計を誰かにお願いしたものではありません。
 詢さんの「とにかく水平になる面をなくせばよい」という言葉とヴァイオリン奏者の堀米ゆず子さんの「床板は舞台に垂直に貼りなさい」という言葉だけを忠実にまもっただけです。
 素材の選定はあっちゃこっちゃ行って最初の予定通りではないですが(主に消防法がらみ)結果論ですがこれでよかったのだと思います。
 内装をお願いした建築会社はじめその協力会社の皆さんにはホント無茶なスケジュールでお願いしたと思っています。
 聴きに来てくださった方々、遠くから応援してくれた皆さん、ありがとう。
 次は9月23日、小林道夫さんのピアノです。